應其

高野應其(たかのおうご)のエッセイと小説。

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よねぞうの死66〔第八章〕・マリ-の過去1

マリ-の過去1


「わたしはスペインのバスク人なの」


「バスクといっても関心のうすい人は、それ何処?と思うでしょうが、有名なピカソのゲルニカと聞けば分ってもらえるかも・・」

 それからマリ-が自分の故郷を語った。


 バスク地方は、スペインとフランスの国境に横たわる、ピレネ-山脈の西部に当り、前方にビスケ-湾が広がり、今はスペイン自治領になっている。
この地方は独特の言語と文化を持ち、昔から独立志向が強く、常に激しい独立運動を繰り返して来た。

わたしはバスク県のビルバオという町の出身だが、それより北東約20Kmにゲルニカの町がある。 その町に育った6つ上の従兄弟と20才のとき結婚した。

この町の近代史で有名なのは、1937年フランコ政権がドイツ.ナチスと組み、史上初の無差別爆撃を行い、ゲルニカ住民7千人のうち2千人以上を虐殺した。 パリに居たピカソが激怒して、あの代表的な作品を生んだ。

世界戦争後もフランコ政権が続き弾圧が厳しい中、夫は分離独立運動の義勇軍ETA(祖国バスクと自由)に参加した。

結婚して10年目、フランコ政権の弾圧がますます厳しくなり、夫はわたしを手許に置くと、どんな危険が迫るとも分らないのと、また自身も自由に活動できないとの理由で、ツテを頼って私ひとりアメリカに渡らせた。 看護士の資格を持つわたしは泣く泣く夫と別れ、故郷を離れた。

数年ボストン郊外で病院に勤めたが、知人もなく言葉も不自由で、どうにも馴染めなくて困っていた。 そのとき病院で、アメリカ人と結婚した日本人、山田華子という患者と知り合った。

山田さんは東京のある大学の講師をしており、夫のヘンリ-氏も民族学者で、わたしの古郷のこともよく知っていた。

1年ほどして、東京へ帰る夫妻から誘われ一緒に日本へ来た。 そしてこの夫妻の紹介で、病院の仕事に就き友達もでき、落ち着いた生活を送っていた。

一昨年の夏、2泊3日で病院仲間といっしょに、那須高原へ遊びに行った帰り、私たちの乗ったマイクロバスとトラックが正面衝突、死傷者7人の大惨事故となった。

事故直後、まだわたしは生きていたが内臓破裂で出血、残念ながら血液型がバスク人の大半が持つRHマイナス型(逆に世界の85%がプラス型)で、運び込まれた医院にその型の血液がなく、間に合わずわたしは出血多量で死亡した。

皮肉にもわたしは病院関係者なのに・・・ あっという間の出来ごと、未だに死の実感が湧かない。 人間界にいるスペイン在の愛する夫は、わたしの死んだのも未だ知らないのでは?

そしてこの阿修羅に来たのも、夫のバスク地方独立の執念を持つ、その妻というだけで送り込まれたようだ。 釈然としないので毎日ここに来て、平常心を保っている。

よねぞうこの話を聞くや、思わず両膝に揃えて置いていた、マリ-の両手を掴み励ました。 

愛する夫や遠い祖国を離れさまよい、つかの間の安住の日本の土地で、薄幸の命を散らした女性に対する、感動と無垢な同情が自然に体を動かした動作だ。

マリ-はこうも付け加えた。

「わたしの性格では、この阿修羅界はエンマ庁のミス配属だが、夫は生涯かけた独立の義心で固まっており、ここに住んでいると死んだときは、間違い無くここにやって来る。 それまで辛抱しながら待ち続ける・・・」と。 


 なんと健気な・・。


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